■レポート、雑感リスト  
「パレスチナ(2)」
 

トウルカレムでは、女子小学校も爆撃を受け、そこが投獄場所として利用されていました。 トウルカレム難民キャンプのリーダーと投獄され出てきたばかりのジャマール・イッサさんの話によると、3月8日真夜中過ぎ、キャンプは60台の戦車と4機のヘリコプターに囲まれたそうです。 ジャマールさんは、明け方の3時半に30人のイスラエル兵に家を取り囲まれました。

以下彼の話。

「私の捜索という名目で、イスラエル兵たちはまず両隣の家を取り壊しはじめました。
6時になる頃玄関がノックされ私がドアを開けると、数人の兵が入って来て家族を一つの部屋に集めました。
私たちの見ている前で家の中のものを破壊し、目の前に3時間座り込みました。その間ずっと「ここは俺達のものだ!」と怒鳴ったり叫んだり、私を殴ったりしました。

そして私は外へ連れ出されました。他にもたくさんの人が連れ出されていました。
みんな目隠しと手錠をされ裸でキャンプの女子学校に連れて行かれました。しばらくするとバスが何台もやって来て私たちはフワラというナブロス付近のイスラエル領に連れて行かれ、囚われている間は腕を縛られ立たされたまま殴られたり叫ばれたりし水も食料も与えられませんでした。その日連行された男は400人にのぼり、今も100人以上が拘束されたままです。」

今回は6日で戻ってきましたが、これまでも何度も投獄され家を取り壊されています。なのに彼は私の方からこのことを聞き出すまで、自分からは何も言っていませんでした。

この話を聞いたのは、トウルカレムの人々に招かれて町の小さなレストランで昼食を食べているときがきっかけになりました。
その時わたしは、たまたま6人のPLOのメンバーに囲まれて座っていました。 彼らはとてもシャイで、礼儀正しく、冗談ばかり言っていました。そして私が日本から一人で来ていることにとても驚いたり、丸い目で日本のことをいろいろ尋ねたり、どんどん食事をすすめてもてなしてくれるのでした。

けれども私がチキンのおかわりを、もうおなかいっぱいだからと笑って断ると、周りの人がみんなでそのチキンをジャマールさんのお皿にのせて「おまえは牢獄から出てきたばかりで栄養つけなくてはならないからもっと食え食え!」と冗談を言ったりしていたので投獄の事実を知り、食後に話を聞かせて下さいと頼んだのです。

どこを訪ねても、占領の方法は同じやりかたでした。
シャロン首相は「テロ対策」と銘打って行っていますが、実際には学校や病院も爆撃を受けていました。完全に封鎖し人々を閉じ込めて、男達を連れ出して無抵抗の状況を作り出していっせいに攻撃をするのです。ですから、もちろん政府関係の建物や警察署などはめちゃくちゃに破壊されていました。そしてたくさんの人が殺されています。武器も押収していきます。

彼が連れ出された3月8日、トウルカレムでは17人が殺され100人以上が怪我をしました。封鎖されたキャンプの入り口では、救急車の進入が戦車によって阻まれ、怪我人を運び出すことも出来ません。今月に入って国連が、救急活動の妨害に対して非難をしていましたが、実際には妨害だけではなく、救急車も爆撃を受けています。トウルカレムでは、救急車が正面から銃撃され運転手の頭が半分吹き飛び、アシスタントは入院、もう一台は戦車に直接追突され、グシャリと潰れていました。この追突の瞬間を捉えた写真をある女性がたまたま撮影し、エルサレムポストにも載りました。

ジェニンでは、救急車が戦車によって爆撃され、救急センターのデイレクターが殺されました。センターの方にその時の写真を見せてもらいましたが、頭や顔まで真っ黒に焼け焦げた姿には面影など何も残っていません。 彼は、9才の女の子を救出に向う途中でした。
けれども救出を待ったまま、その女の子も亡くなりました。もちろんそうなることを狙って、救急車を攻撃してくるのです。彼らの意図はテロの撲滅ではなくて、パレスチナ人の撲滅であることがだんだん分かってきました。うすうすは気づいていましたが、本当にこの現代社会で、民主主義を唱えている国が総力を尽してそんなことが出来るとは、どうしてもイメージできませんでした。

私たちは、殺されたデイレクターの家族も訪ねましたが、力なく肩を落としている年老いた彼の母親にかける言葉もみつからず、ただ手を握り、見つめあうのが精一杯でした。私は悔しくて背中が震えてしまいました。

ジェニンキャンプでもUNRWA(パレスチナ人のための国際支援団体、日本もたくさん援助している)の女子小学校を訪ねましたが、もちろん戦車によって爆撃を受け校庭も校舎も銃弾の跡で穴だらけでした。フランス人たちは、イスラエルに対して請求書を送ると言っていました。そして、一番援助している日本の政府は、抗議をしないの?と言いました。

ある女の子が、私にノートを見せてくれました。
彼女のノートは、銃弾を受けびりびりに切り裂かれていました。そしてその裂け目の間に、まだ弾丸がくいこんだままでした。彼らは、授業中の小学校を銃撃したのです。たくさんの子どもが殺され怪我をしています。
もちろん、病院へ運ぶどころか、助け出すことも阻まれます。助け出そうとするものは容赦なく撃たれてしまうのです。この日UNRWAのジェネラルデイレクターが駆けつけてキャンプに入ろうとしましたがイスラエル兵はそれも拒みました。

このジェニンキャンプは、わずか1平方kmの土地に15000人もの難民の人々が肩をひしめきあって生活しています。皆1948年以降、イスラエルにより土地を奪われ難民となった人々です。

3月4日に占領侵攻され、同じようにたくさんの人が殺されましたが、ここでは死体をキャンプの外にある墓地に運ぶのを、イスラエル兵によって阻まれました。それで仕方なく、キャンプの中の可能な場所に埋めて人々はお墓を作りました。

ところがそのすぐ後イスラエル兵は、戦車やブルドーザーでそのお墓を掘り返し破壊していきました。私は、掘り返されてまだ間も無いそのお墓の、写真を撮る他に何も出来ませんでした。


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