■レポート、雑感リスト
■10月24日モナさんからの手紙〜ひとりの医師として、母親として、パレスチナ人として
 

下記にご紹介するモナ・エル=ファラーさんからのメールは今年インティファーダ
3年目を迎えたばかりの10月始めに届きました。

モナさんと初めてお会いしたのは、今年の春でした。

自分の報告会など日本のあちこちで様々な方からお預かりした支援金で、
今年の春、ダンボール2箱分の薬と十数冊の絵本を購入しました。

またUNRWA(国連難民救済機関)始め、パレスチナモニター、GIPP
HDIPなど現地で重要な調査や活動、情報の発信を行うNGO団体や、
ラファ難民キャンプなど貧困層の家庭、イスラエル兵に学校帰りに
頭を撃たれ、寝たきりになってしまっている17歳の少年の
治療費、家族のいない孤児の青年に携帯電話購入費、
ゴミ問題を抱える地方の村にゴミ箱の設置費用の一部など
現金で寄付をしました。

薬に関しては、ガザの特に南部で、イスラエル軍の封鎖により
物資の不足に陥ることがよくあることを聞いていたので、イスラエルの
アシュケロン郵便局に私書箱を持つ友人にお願いし日本から
輸送、ガザからはバスに乗ってラファの病院まで自分で届けました。

ところが当初私が届けようと考えていた病院は、医療業務はもちろん
やっているのですが、こうした支援物資などを、職員の一人が
横領してしまうという理由で、地元の人に止められてしまいました。
(みんながちゃんと知っているところがパレスチナらしいコミュニティの
蜜さなのですが)
それでどこに薬を届けるのが一番いいか尋ねてみると
返ってきた答えが『UHWC』というところのクリニックで
この病院のスタッフ達は本当に地元の人々のために
一生懸命で、信用できるんだよ・・といわれました。

UHWCはラファとハンユニスに二つのクリニックを持っていて
当時そのデイレクターをしていたのがモナさんでした。

(彼女はガザ市で子どものための心理解放に向けての
さまざまな活動にも従事され、絵本はモナさんに
お渡ししてあります)

ラファのこの小さなクリニックに着くと、ロビーは小さな
子どもを抱えた母親達でごった返していました。

また、この地域は、レイチェルコリーがイスラエルのブルドーザーで
轢き殺され、トーマスが戦車からの発砲で脳死状態となったように、
頻繁に軍事侵攻を受ける場所でもあります。
ISM(国際連帯運動)の事務所も、この病院から歩いて10分くらい
のところにありました。
つまり、ここの医師達は休む暇がないということです。
忙しさと人手不足から、医師達はみな日中は仕事として、
夕方から夜間にかけてはボランテイアで働いていました。

この病院は救急車を一台持っていて、常に救急隊員が
待機していました。
訪ねた私に隊員服をプレゼントしてくれ、要請があると
私も一緒に救急車に飛び乗って現場へ駆けつけて
行きました。昼間救急車の出動はほとんどなく
出る時はいつも夜でした。
現場とは、イスラエル軍が戦車などで侵攻中の場所と
いうことです。
人々が逃げてくる方向に逆らって走るわけですから
いつ撃たれるかわからず、本当に危険な出動です。
救急車は暗闇を戦車はどっちだ?と確認しながら
戦車が来ている方へ進んでいきます。
いつも冗談を言っている彼らもさすがに真剣な顔に
なっていますが、特にあわてた様子も、気負った感じもなく
途中途中で情報を集めながら、冷静に、果敢に
事に当たっていました。
私は助手席で見ているだけでしたが、職員達の淡々と
落ち着いた状況への向かい方、心の強さに敬服してしまい、
一方で、こんなことを日常的にやらざるを得ない状況を憂い
ました。

ところでこのUHWCラファの1階と2階はクリニックと処方箋窓口。
3階は女性達のためのフィットネスセンターとサウナなど
憩いの場。
4階は子どもたちのための図書館や児童館のような部屋を
建設中でした。

私を案内してくれていた薬剤師のイヤードさんが『来てごらん!
ビックリすることがあるよ』と言って4階工事中の部屋の窓際に
かかっている旗を広げて見せてくれました。
そこには『レイチェル・コリー・チルドレン・アンド・ユース・センター』と
書いてありました。
亡くなったレイチェルを偲んで、この子どもたちのためのセンター
彼女の名前をつけていたのです。(写真参照

私がラファを離れてガザ市へ戻る時、モナさんと一緒に乗合タクシーに
乗りました。
イスラエル人入植地の人々のためにかけられた大きなバイパスが
道を横切っている場所まで来ると、パレスチナ人の車は止められて
しまいます。アブ・ホーリー検問所です。

(この検問所の詳しい様子は、下記に紹介している
寺畑由美さんのサイトをごらんください)

道が開くのを待ちながら、モナさんが『ここはかつては
緑の豊かな美しい土地だったのよ。
子どもの頃よく遊んだ場所なの。
入植者達のバイパスを作るために、家を破壊され、土地を
荒らされ、何もかも奪われて、このような砂漠みたいな
土地になってしまったわ。
この風景を見るたびに、心が痛いのよ。』と話してくれて
とてもつらい気持ちになりました。

取り留めのない文になってしまいましたが、下記に
モナさんから届いた手紙をご紹介します。
かねこあさみさんが訳してくれました。

イスラエル軍がパレスチナ人に対して使っている
『フレシェット爆弾』についても、一度きちんとご紹介
しなくてはいけないと感じていました。

下記にこの爆弾の構造がよくわかるサイトをご紹介しています。
こちらも是非ご参照ください。

モナさんからの手紙はこちらのサイト でも見られます。

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インティファーダ3年目を迎えたメッセージ 
──ひとりの医師として、母親として、パレスチナ人として 
Dr. モナ・エル=ファラー
2003年10月2日


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 インティファーダ[*1]の3年目を記念する日に愛と希望と
揺るぎない気持ちのメッセージを送ろうとして、どのように
書き出したらいいか、私自身迷っています。
 私は政治家でもなければ、イスラエルによる36年間の
占領下におかれたパレスチナの人々の生活を分析する
ような評論家でもありません。私は社会サービスと医療
分野で仕事をしてきた活動家で、私たちパレスチナ人に
対してイスラエル軍が行ってきた抑圧や暴力や不正の数
々を目撃し、体験してきた一人でしかありません。

 私は、個人的には、子供時代の自分の家を失うという、
深く傷として残る、忘れることができない体験をしました。
イスラエル人たちが両親の家を取り壊し、私たちのレモン
やオレンジの林をめちゃくちゃにしてしまったときのことです。
その林はかつては果実がたわわになった木々であふれ、
働いていた多くの農民にとっては日々の生活の糧を得る
大事なものでした。
それらは失われたのです。誰も足を踏み入れることを許され
なくなりました。
その後、この土地には不法にガザに住んでいるイスラエル人
の入植者が安全に行き来するための橋が建設されました。
占領と占領軍について、その違法性をはっきりと示す国連決
議はたくさんあります。

 私が住んでいる360平方kmのガザ回廊は、5000人の入植者
が40%の土地を占拠しています。かたや、120万人のパレスチ
ナ人は残りの土地に住んでいて、世界でも最も人口過密な地帯
となっています。ガザ市から20km南にあるハン・ユニスの母を訪
ねる道のりは、アブ・ホーリー検問所[*2]を通過し、あの橋の下
を通っていかないとなりません。今は未亡人となった80歳の母が
ひとりで生活している両親の家があるハン・ユニスまでは車で20分
の距離なのですが、最近は2時間かかるのが普通です。
 

 ガザからハン・ユニスまで行くにはヌイセラート[難民]キャンプを
通過します。この前、その道で私は死と爆弾の匂いを嗅ぎました。
4時間まえにイスラエル軍が難民キャンプを急襲し、ジハード・アル・
スウェレーというレジスタンスの闘士を殺害しました[*3]。そして、
数十人もの人たちが負傷し、家を失いました。今までイスラエル軍が
何回もやってきたように、住人達がいるのに家を破壊したのです。
その前にはハマスの政治指導者であるドクター・マフムード・アッザハル
に対して暗殺が仕掛けられました[*4]。ドクター・アッザハルは私の
同僚であり、長年の知り合いです。ドクターは暗殺を免れましたが、
息子さんはこの攻撃で殺されました。


 ハン・ユニスへの道のりでは頭上に見えている攻撃ヘリコプターと
戦闘機からの攻撃が心配でなりませんでした。「次は誰を狙うのだ
ろう?私たちの前の車?それとも後ろの車?」イスラエルが軍事と
政治部門のレジスタンス活動家への攻撃を強めてきて以来、この
心配は常にガザに住んでいるすべての人から離れることはありま
せん。多数の民間人が爆撃を受け、殺され、怪我をしてきました。
 

 検問所の手前では、検問を通過するために待っている車の長い
列を目にします。私は徹底的に荒らされてだめになった広大な農地を
眺めていました。ここはかつては実り豊かな、美しい場所でした。今や
受けた打撃は明らかで、私のようにこの地域をよく知り、環境に与えた
痛手の大きさやかつてのこの場所との違いを痛みをもって感じてしまう
ような人間には、息が苦しくなるほどです。
 

 ……イスラエルは何百年もこの地域で生きてきた私たちの物理的な
存在だけでなく、私たちの歴史や人間としての感情までも抹殺しようと
している。私たちを単に数として扱うことに固執し、また人間としての
最低の必要性を満たせばいいだけの第3市民として扱おうとしている。
でも、彼らは毎日、パレスチナ人が生活を続けていく能力、この上なく
悲劇的な出来事に耐えていく姿に直面している。私たちは、ごく普通の
平和な生活が実現することを待ち望んでいる、ひとつの民族だ。私たち
は、普通の平和な生活を送る権利を持っているし、当然、私たち自身の
独立したアイデンティティのもとに、この地域の発展に関与することも
できるはずだ……
 これは私が車のなかで座って、人々が[検問所で]まるで汚物であるか
のように扱われ、若い兵士達が私たちの人間性も無視しているあいだに
考えていたことです。


 第2次インティファーダが勃発して以来、6万ドゥナム(60平方キロ)の
パレスチナの耕作地が破壊された。
 
 取り壊された家:3877軒
 殺害された人:3338人[*5]
 負傷した人:46647人
 うち、6188人が深刻な障害を負った
 殺された子どもは594人
 ……イスラエル軍の軍事行動によって直接、殺害されたものと、
検問所で止められたり、外出禁止令下にあって医療機関へ辿り
着くことができなかったことによる死亡の双方を含む。
 
 199人の女性が攻撃で殺され、54人の女性が検問所で待って
いる間に出産し、そのうちの31人が死産だった。
 424人の救急車の運転手が負傷者を救助している間に攻撃を
受け、衝突地点で25人が殺害され、多数が怪我を負った。
 病院へ行くことを阻まれたり、検問所で通過を待っている間に
死亡した患者は99人。病院や医療施設がイスラエル軍の攻撃を
受けた回数は303回にのぼる。
 

 
 統計は問題の規模を示してくれます。しかし、私は思うのです。
ひとりの母親が占領軍によって病院にたどり着くことを阻まれ、
路上で子どもを出産するしかなくなること、これだけでさえ徹底的に
非難されるべき人権の侵害なのではないか、と。
 

 ある時、私はジャバリヤ難民キャンプで、にわか作りのサッカー場で
サッカーをしていた子どもたちが攻撃を受けたのを目撃しました。
使われた武器は殺傷力が高く、国際的に使用を禁じられている
フレシェット“ハチの巣”砲弾[*6]です。
 また別な恐ろしいこんな話もあります。耳の聞こえない年老いた
男性が破壊された自宅の瓦礫と一緒に生き埋めにされました。
イスラエル兵はこの男性を避難させたいと懇願する家族の言葉を
無視したのです。


 しかし、これだけに留まらず、日々の攻撃と不正義を伝える話は
あまりにもたくさんあります。私の活動の場である現地医療NGO・医
療委員会連合(UHWC)は、外国から医薬品の寄付を受けることが
たびたびあります。しかし、イスラエルはそれを[パレスチナの]中に
入れることを長い間拒んでいました。子どもたちのミルクを含む様々
な支援物資において、このようなことが起こっています。
 

 パレスチナの母親たちは朝、「いってらっしゃい」のキスをして
子どもたちを学校に送り出すとき、午後に我が子が学校から無事
帰ってきて、ちゃんと抱きしめることができるのかわかりません。
多くの場合、子どもたちは学校からの帰り道で殺されています。
私も自分の子どもの安全を四六時中心配している、そんな母親の
ひとりです。占領下にあるガザには安全なところなどどこにもない
ように感じます。攻撃はどんな時でもどこにでもやってきます。

うちのバルコニーからはガザの美しい海が見えていますが、夜に
この同じ海からイスラエルの特殊部隊潜水兵たちがやってきて、
音も立てず、冷血に5人のアラファトの[パレスチナ自治政府の]
ガードマンをうちの窓の下で殺しました。あの夜、死の匂いは
とても強くたちこめました。


 この毎日のストレスの結果、ガザの人口の90%は様々なタイプの
心理的障害に苦しんでいます。41%はPTSD[心的外傷後ストレス障害]
にかかり、それは主に女性と子どもたちです。子どものうちの35%は
通常の健康的な発達に必要とされるバランスのとれた食べ物が
不足していることから貧血に陥っています。


 インティファーダ3年の記念日に私が送るのは、みなさんに
支えられて、占領への抵抗を続けていくというメッセージです。
そして、人類の仲間に対して行われている不正を認めない
世界中のみなさんへの連帯のメッセージです。他の国のものに
押しつけられている不正義を拒否するみなさん、どうか私たちの
ために声をあげてください。

 このことだけは心に留めておいて欲しいと思います。
占領下にあって私たちが直面している毎日の試練にもかかわ
らず、私たちは生活し続けていて、仕事に、学校に、大学に行
っているということです。私たちは互いに支え合っています。
私たちは抵抗を続ける人々を助け、子供たちがストレスに
満ちみちた状況に何とか対処していけるように力を貸しています。
私が関わっている医療委員会連合は女性と子どもたちを手助け
するための様々な健康と社会活動のプログラムを実施しています。
もっとも困難な状況にある時でも医療サービスを続け、さらに
これらのサービスを発展させていくことを追求しています[*7]。
これらすべては過去3年間を通じて、大変強力で効果的だった
みなさんからの連帯と支援によってやってきました。

 私たちは今後も自らの仕事を続けていきます。パレスチナの
子どもたちを含んだ、世界中のすべての子どもたちに涙ではなく、
笑顔が見られる日まで。

 私たちは占領に対する闘いを続けていきます。私たちの闘いは
イスラエルの占領に対するパレスチナ人の闘いだけではなく、
世界中の不正義に対するすべての誠実な人々の闘いなのです。


ドクター・モナ・エル=ファラー
医療委員会連合[UHWC] ガザ
2003年10月2日


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この文章はメールによって届けられたが、後に「エレクトロニック・
インティファーダ
」に掲載された。


翻訳:かねこあさみ 監修:森沢典子・安藤直美

【訳注】

[*1]インティファーダ……ここでは2000年9月29日に始まった
第2次インティファーダ(=アル・アクサー・インティファーダ)を
指す。後にイスラエル首相となるシャロンがイスラム第三の
神聖なモスクとされるアル・アクサー・モスクに兵士を連れて
乗り込んだことに端を発する。
『インティファーダ』はイスラエルによる占領に対する住民の
抵抗運動のこと。

[*2]アブ・ホーリー検問所……この検問所により、ガザ市と
ガザの南部の町の通行に大きな障害がもたらされている。
その実態については、ラファで青少年活動を行うNGO職員、
寺畑由美さんによる『アブホーリ検問所:「地獄の辺土」
に詳しい。


[*3]9月11日。投降に応じなかったこの男性は攻撃ヘリコプター
からのミサイルによって殺害された。その後、この男性の自宅が
爆破された。

[*4]9月10日。この暗殺攻撃で、息子ともう一人の男性が
亡くなった。*3の事件とともにナブルス通信を参照のこと。

[*5]この人数は、一般的な統計に出ている2600~2800人よりも
多いが、算定の基準が本文中にあるように異なることによると
思われる。

[*6]フレシェット“ハチの巣”砲弾……砲弾の中に2.5〜5cm位の
鋼鉄製釘(形状はダーツ、矢などに酷似)が約5000本仕込まれ、
砲弾が空中で炸裂する際に飛び散り、無差別に人体をずたずたに
する対人殺傷兵器。1つの砲弾から発射される「矢」は300m×90mの
範囲に降り注ぐ。この砲弾の通称は『ハチの巣』。
米軍がベトナム戦争時に最初に使用した。ガザ地区ではこの砲弾に
より2000年以来、少なくとも26人が殺されている。最近で確認されて
いるのは、2003年3月、難民キャンプに打ち込まれ、8人が殺され、
100人以上が負傷したケース。この砲弾による遺体の中には首が
落ちていたケースも2件報告されている。イスラエルとパレスチナの
人権団体は2002年にこの兵器の使用を禁じるようイスラエル高等
裁判所に訴えていたが、2003年4月、高等裁判所はこの訴えを退けた。
フレシェット弾は「不必要な苦痛を与え、民間人に危害を加える」と
いう点でジュネーブ協定第4条約や国際人権法に違反している。
このフレシェット弾の構造図などはこちらのサイトを参照。

[*7]緊急事態に備える医療体制については、筆者であるモナ
医師も登場する以下の文に詳しい。
「この目で見たガザ イスラエルの侵攻を世界に訴える 」
ANSWER視察団による) 
 

※ガザ地区の地図はこちら

※このメールが届けられた10日後にモナ医師からガザの
ラファにイスラエル軍が侵攻していることを知らせる緊急の
メールが届いた。
そのメールはこちら で 読むことができる。
『包囲され、絶え間ない攻撃にさらされるラファ
──ガザの医師からの訴え』

 
midi@par.odn.co.jp