■レポート、雑感リスト
5月27日に帰国しました
 
 みなさんこんばんは 大変ご無沙汰しておりました。 元気でお過ごしでしょうか。
 3月下旬にパレスチナへ向かい、約2ヶ月の旅を終えて 5月27日に帰国しました。 メールのサーバがいっぱいになってしまい、五月初め以降の メールが一切受け取れていませんでした。 送ってくださったのに、戻ってしまった方もいらしたのではないでしょうか。 ご迷惑をおかけしました。 もう受け取れるように整理しましたので、なにかありましたら このアドレスにもう一度送信お願いします。

   さて、前半の一ヶ月は主にガザ、ラマラ、エルサレムなどで過ごしました。 ちょうどアメリカが、反対の声が広がる国際世論や国連を面前に 公然とイラクを攻撃し始めた時期でもありました。 同時に「中東和平」を掲げ『ロードマップ』を提唱、イラク攻撃の一方で アメリカ主導でパレスチナ−イスラエルの未来を描こうと動いていました。 あの時イラクを攻撃する理由は「フセイン打倒」以外に 一つもありませんでした。 でもそのフセインが今どうしているのかさえ明らかにされないまま この戦争はうやむやに記憶の奥へ放り込まれようとしています。

   3月末アンマンに向かう飛行機の中でのことです。 現地時間21時30分 星がものすごく近くに見えることにすっかり見とれて 窓に顔をぴったりくっつけて外を眺めていました。 恐ろしいまでに澄んだ夜空に、オリオン座が他の星にまぎれてしまうほど たくさんの星が瞬くその下に、15〜20秒に一回の割合で 眼下の雲を真っ赤に染め光が走りました。 それはイラクを空爆している光でした。 空を割るような紅い激しい光が、雲の下で次々と輪を描き 消えていくのです。 初めは信じがたいこともあって、なんの光なのか認識できずに いたのですがそれは明らかに攻撃の光で、すさまじい勢いで 光っていました。

   「いいかげんにして!」と叫んでいました。 この一回の光の度に、その下でいったい何人の人が 悲鳴を上げ、怪我をし、死を向かえ、家族を失っているのだろう? なんていうことをするんだろう? 飛行機に乗って普通に旅をする私と同じ空の続きで 当たり前のように任務を感じてスイッチを押し 爆弾を落とし破壊行為が繰り広げられている。 たまらなくって、涙が止まりませんでした。 誰がどんな理由を示してくれても、戦争というものの 物事の解決方法を納得して受け入れることはできません。

   そんな戦争を、パレスチナの人々はどう見ているのか、 そんな戦争を指揮し、ずっとイスラエル軍を支えてきた アメリカ政府が提唱する和平案が語られる中、 パレスチナの人々は、いったいどんな「未来」を描いているのだろう? そんなことが知りたくて、旅の前半はいろいろな人に会いました。 市民を民主的に組織し、パレスチナの市民の内側の力を引き出し 自立していこうとするムスタファ・バルグテイ氏、シャフィ氏、 法律家としてこの占領の問題に向き合ってきたラジ・スラニ氏 イスラム運動の組織の中で、社会活動、政治活動、そして94年以降は 軍事部門を組織し、前線で戦ってきているハマスの社会的指導者 イスマイル・アブ・シャナブ氏などなど。

   またイスラエル側の人もいろいろな方にお会いしました。 ホロコーストで両親を失い、イタリアからフランス、イスラエルと逃れてきた シオニストの家族で育ったイスラエル人のハナンおばあさん 兵役を終えてインドを旅し、カシミール紛争を目の当たりにし 初めて自国の軍を振り返り、それ以降兵役につくのを拒否し続けている 28歳の青年 兵役を拒否したために逮捕されている人たちを、経済的、心理的に 支える活動をしてきている人 レストランの入り口で自爆テロ犯侵入を防ぐためガードマンの 仕事をしている人 イラク攻撃が始まって、イラクからのミサイルを恐れ、テルアビブから エルサレムに非難してきている人 兵士達 などなど。

   ガザではラファ難民キャンプ、とくに夫をイスラエル側に 逮捕され、働き手を失い、貧乏のどん底で、裁判も起こせず ひたすら夫の帰りを待っている二人の女性の家にそれぞれ 滞在しました。

   後半の一ヶ月は、ナブルスの郊外イラクブリン村に滞在しました。 イラクブリン村は1000年以上交番も信号もないまま続く とても平和な美しい村です。 電気は夕方5時から夜の1時まで。 看板もない小さなお店が4件村の中にあるだけ。 砂糖と米以外は、ほとんど自給自足でまかなえる 豊かな村です。 家はほとんどの人たちが自分達で建てていますが、 おしゃれな家が多くて、生活レベルも低くありません。 淡々とシンプルに暮らす中に、パレスチナ人の強さや 大切に思っていること、何に幸せを感じているのかなど たくさんのことを教えてもらいました。

   各地で難民キャンプを訪ね、48年以前、この地に難民として逃れる前の 村の暮らしがどんなだったか聞くたびに「ビューテイフル、ビューテイフルライフ」 だった・・と 話してくれることが多いのですが、その「美しい暮らし」って いったいどんなものだったんだろう?ってずっと思っていました。 占領下の悲惨な暮らしをたくさん語ってもらって、見て、知ることが 必要なのと同じくらいに、この人たちが「失ったもの」が何なのか 知りたい・・・。ずっとそう思っていました。 イラクブリン村で暮らしてみて、難民の人たちが話してくれた「美しい暮らし」っ て、 ああこんな風だったのかもしれない!って 少しだけ実感できたような気がしました。

   また、パレスチナ人が望む「平和」な暮らしがどんなものなのかも 少し見えてきた気がしました。 それを学ぶことなしに、どんな和平も語れないのでは・・・とも 感じています。
  そしてそんな平和な村でさえ、イスラエル軍の占領の影響は色濃く出ていて 特に10代、20代の若者たちの暮らしを直撃していました。 今回の旅の詳しいレポートをどんな形でご報告できるかいろいろ 考えています。    
                                         
                 5月27日             森沢典子
 
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