こんばんは
今日塾に来ている小学校2年生や4年生の子達と夢中で詩を読んだり書いたりしました。
えだまめプチプチ
4年 よしだめい
えだまめを食べた
まめを押すと、プチ!
口にはいった
まめを押すと、プチ!
飛んでってひざにのっかった
あれ?
まめがない
小さくてうすい
どんぶりに はいった えだまめの皮
えだまめプチプチ
もっとたべたい
もうないの?さっきまで
2年しむらえりか
さっき まどをみていたら
あんなに あかるかったのに
はっと きづいて もういちどみたら
くらかった
むちゅうで よんでた詩
いくつかわからない・・・
いつも子ども達と時間を過ごし、とても豊かな気持ちになって一日を終えます。
なのにニュースを見て、また落ち込みます。
イスラエルの選挙、ブッシュ大統領の演説そしてまた国会で動き出そうとしている有事法制 アメリカや日本政府、そして私たちが、本気で幸福や平和を望み「正義」を唱えるというなら、
ほかにやるべきこと、やれること山のようにあるはずです。
例えば目の前の子ども達や家族身近な人と向き合って、幸せな気持ちで過ごすとか たとえば、イラクを査察するよりも、中東情勢の最も重要なカギとなるイスラエルの行動や、
パレスチナの人々の置かれている状況に目をむけ、解決方法を探るとか。
特にアメリカは、イスラエルへの影響力を考えてもこの問題を置き去りにして無視し続けることは けしてしてはならないはずです。
アメリカが本当に国際平和への責任を感じるのならば真っ先に取り組むべきことです。
アメリカがAデーと設定した3月のある日に向けたこの作戦は恐ろしいものであることが わかってきました。
なぜ本気でこうしたことを実行に移そうと考えられるのでしょう?
彼らには想像力がないのでしょうか?
こうした作戦が私たちにもたらすものはいったいなんでしょう。
私たちはどうしたらこれを止められるのでしょう?
私たちは政府に力を持たせすぎてしまったのでしょうか。
「この戦闘計画は、国立防衛大学で開発された「驚きと畏怖」というコンセプトに基づいている。
それは、ミサイルの力による物理的破壊でなく敵の戦意を破壊する心理的効果を主眼としたものである。
「彼ら(イラク)が戦闘をやめてしまうことを我々はねらっている。彼らが戦わないことをだ」と、 「驚きと畏怖」の立案者の一人、ハーラン・ウルマンは、言う。このコンセプトは、
高精度誘導兵器を多用するのが特徴だ。
「そうすれば、効果は何日、何週間もたって現れるのでなく、すぐに現れ、広島での核兵器にかなり 近いものだ」とウルマンは言う。
第一次湾岸戦争では、兵器のうちピンポイントの精度で誘導されるものは10%だった。
今度の戦争ではそれが80%になるという。
空軍は、通常の精度のひくい爆弾を、衛星で誘導される爆弾に変えるため、
こうした誘導キットを6000個、ペルシャ湾に蓄えている。そんな兵器は、 第一次湾岸戦争のときには存在しなかった。(一部抜粋)』
(大河内さんより転送 訳 萩谷 良)
尚、この全文をご希望の方はおっしゃってください。
以下に、2つの記事を転載させていただきます。
一つはイスラエル人記者ウリ・アブネリの記事です。
杉原真理子さんたちが作ってくださっているパレスチナ情報というサイトに載っています。
http://www6.plala.or.jp/palestine/
この記事は少し前のものですが、今も変わらないどころかさらにひどい状況です 私たちは何回読んでも、彼らの置かれている状況には追いつくことはできません。
でも想像することは出来ます。
もう一つは別便でお送りしますが、エルサレムの早尾さんの記事です。
よろしくお願いします。
森沢典子
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子どもの報復
ウリ・アブネリ-2002/11/16
(パレスチナ子どものキャンペーン大河内秀人氏訳)
日曜日以来、ある疑問が、眠れぬほど私の頭の中を駆け回っている。
あの若いパレスチナ人に対し、キブツ「メツェル」に侵入し、母親と二人の 小さな子どもに武器を向け、そして彼女らを殺すよう仕向けたものは何か?
戦争でも、子どもを殺すことはしない。それは基本的に人間の本能であり、 すべての人々、すべての文化において共通のことだ。
それは何百人もの子どもをイスラエル軍によって殺されたことへの復讐を望むパレスチナ人であっても、子どもに対して報復することはない。
どんな道徳的な戒律も"子どもがやられたら子どもをやれ"とは言わない。
こういうことをした犯人たちは、生まれつき残忍な、狂気の殺人鬼と思われて はいない。親戚や隣人たちに聞いてもほとんど、まったくの普通で、非暴力的な
人間と評される。そして多くは宗教的にも狂信者ではない。
実際に、キブツ「メツェル」での行為をおこなったSirkhan Sirkhanは、世俗的な 運動体であるファタハのメンバーだった。
これらの人はすべての社会階層にいる。
飢えに苦しむ貧しい家庭から出る者もいるが、 他のものは中流家庭、大学生など教養のある人々だ。かれらの遺伝子は私たちと違いはない。
だとすれば、何が彼らにそれをさせるのか。
何が他のパレスチナ人たちにそれらを正当化させるだろうか。
ちゃんと解決するためには、まず理解すべきである。それは、正当化することではない。
子どもがベッドで眠っている家に爆弾を落とすイスラエルを正当化することができないのと 同様、母親に抱かれた子どもを撃ち殺すパレスチナ人を正当化することはできない。
100年前、キシネフの虐殺の後にヘブライ詩人のビアリクが書いたように、 "サタンでも小さな子どもの血を流すような報復は考えつかない"。
しかし本来、理解なくして対処することはできない。イスラエル国防軍の長官は単純な 解決策しか持たない。
叩け、叩け、叩け! 攻撃者を殺せ。指揮者を殺せ。組織のリーダーを殺せ。
そいつらの家族の家を取り壊し、親類縁者を追放しろ、と。
しかし、そういうやり方は解決とは逆の結果をもたらしているではないか。
イスラエル軍の巨大なブルドーザーが、行く手にあるものすべてを破壊し、 殺戮し、根絶して、"テロリストの基地"をぺしゃんこにした後、何日かの内には
新しい「インフラストラクチュア」が出現する。
イスラエル軍自身の発表によれば、"防御の盾" 作戦以来、 攻撃が来るぞという警告が、毎日50回はあった。
この理由は一言で集約することができる。それは「怒り」だ。
何の余地を残さず人間の魂を満たす、凄まじい怒り。
命でさえどうでもよくなる、ひとりの人の生き方すべてを支配する怒り。
すべての制約を拭い去り、すべての価値を凌ぎ、家族や自分が責任を 負う枷をも破る怒り。朝起きるときも、晩に床につく時もつきまとい、
夜は夢にも見る怒り。その怒りは彼らに告げる。
さあ、武器を取れ、さもなければ爆弾を巻け、そしてやつらの家へ行って 殺しまくれ、たとえどうなろうとも。
パレスチナ人地区に行ったことのない普通のイスラエル人は、彼らの怒りの 理由を想像することさえできない。われわれのメディアはおしなべて、そこで
起こったことを無視し、あるいはちょこっと甘く矮小して書く。
標準的なイスラエル人は、パレスチナ人が苦しんでいることを(もちろん、 それは彼らの過失として)なんとか知っている。しかし、実際に何が起こって
いるかはわからない。それはどうしたって自分には関係ない。
家屋が破壊される。地位のある商人も、弁護士も、職人も、一夜のうちに ホームレスとなる。本人も彼の子も孫も。
彼らの誰だって自殺爆弾(自爆テロ)の可能性をもっている。
無数の果樹が根こそぎにされる。その単なる1本の木が、イスラエル軍の 司令官にとってはじゃまものである。しかしその持ち主であるパレスチナ人に
とっては、心の血であり、先祖伝来の財産であり、長年の苦労の賜物であり、 家族の生活の糧である。
彼らのだれもが自殺爆弾の可能性を持っている。
村々の間の丘に、暴力的な一団が"入植地"を作る。その一団を守るために 軍隊がやって来る。もともと住んでいる村人が自分たちの農地なのに来ると
撃たれる。入植地の安全を確保するという名目で、そこから1〜2キロメートルの 範囲では、すべての畑や果樹園で作業することが禁じられる。
農民たちは、自分の子どもたちの食べ物もないというのに、自分たちの果実が収穫されずに腐っていく様子や、自分たちの畑がいばらやアザミで腰の高さまで
覆われていく様子を、遠くから恨めしげに眺めている。
彼らのだれもが自殺爆弾の可能性を持っている。
パレスチナ人が殺される。引き裂かれた肉体が道に倒れ、人目にさらされる。
そのうち何人かは、自らその運命を選択した"殉教者"だ。
しかし他の大多数はどうだろう? 男も女も子どもも? "運悪く"か"たまたま"か
"逃げそこなった"か"火種に近付き過ぎた"かで死んでいく。
そしてそういう人々に対してイスラエル軍は謝罪することはない。
指揮官も兵士も有罪になることはない。なぜならすべて"戦争の中で起こったこと"だから。
しかし殺された人々にはそれぞれ両親がおり、兄弟、息子や従兄弟たちがいる。
そんな彼らのだれもが自殺爆弾の可能性を持っている。
さらにこれらの人々は、深刻な栄養不良に苦しむ飢餓の極限状態に暮らす家族だ。
子どものために食べ物さえ持ってくることのできない父親は、絶望感に浸るしかない。
そんな彼らのだれもが自殺爆弾の可能性を持っている。
何十万もの人々が何週間も何ヶ月もカーフュー(戒厳令)下で2部屋か3部屋に 8 人が閉じ込められ、想像を絶する地獄の生活を送っている。
外では入植者たちが兵士に護られながらボール遊びをしているというのに。
昨日の自爆が今日のカーフューをもたらし、そのカーフューが明日の自爆犯をつくっていく。
そしてそれ以上に、年齢、性別、社会的地位の区別なくどのパレスチナ人もが人生の すべての瞬間において経験する一切合財の屈辱がある。
その屈辱は抽象的なものではなく、完全に具体的なものである。
パレスチナ人がどこへ行くにも通らざるを得ない無数にあるチェックポイントにいたり、 通りで尋問してくる18才の兵士の気分に生殺与奪(まさに生き残るか殺されるか)を
握られているのだ。
その一方、入植者の連中は自由に行き来し、パレスチナ人の村を"訪れ"、財産に損害を 与え、パレスチナ人の農地からオリーブを摘み取り、果樹に火を放っている。
現実を知らないイスラエル人は、いやなやつに支配され、主になった者が奴隷扱い されている立場、それに対しせいぜい呪うか押すくらいしかできない立場、時々実際
に撃たれることもある武器でしょっちゅう脅されているというようなパレスチナ人の 立場は想像できない。
透析に向かう病人や、病院へ向かう妊婦、学ぶことができない学生や、学校に行けない 子どもたちのことも伝えられない。パレスチナの若者たちは、本来尊敬すべき祖父が
軍服を着たイスラエルのハナたれ小僧に公衆の面前で屈辱的な扱いを受けているのを 見せつけられる。
そんな彼らのだれもが自殺爆弾の可能性を持っている。
普通のイスラエル人は、そんなことは想像できない 。
どうあろうと、みんな私たちの子どもで、昨日までただの学生だった兵隊たちはいい子なのだ。
しかしこのいい子たちを連れて行き、軍服を着させ、兵器によって占領地の中に放り込んだら、 何が起こるだろうか。とてもまともではいられない環境の中でも人間の顔を保とうと
する若者も少なくないだろう。しかし他の多くは命令を実行するロボットとなる。
そして常に、どんな集団でも、こんな状況の中で、武器を振り回したり、司令官が目をつぶり、 あるいは満足げにウインクすることを知りつつ、ぞっとするようなことをする
異常な輩は何人かいる。
以上のことすべてが、母親に抱かれた子どもを殺すという行為を正当化しない。
しかし、このことがなぜ起こったか、あるいは占領が続く限り何が起ころうとしてい るかを理解する助けにはなる。
原文:gush-shalom.org/archives/article220.html
http://www6.plala.or.jp/palestine/
森沢典子
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