■レポート、雑感リスト  
ナブルスの友人から
 

みなさんこんばんは

新聞やニュースなどでご存知の方もいらっしゃるかと思いますがイスラエル軍がパレスチナヨルダン河西岸地域に対する大侵攻を推し進めています。

二週間前から取材でナブルスに入っている、友人でビデオジャーナリストの遠藤大輔さんからのメールを、本人に了承を得て、至急で転送させていただきます。

ここに出てくる「滞在先の家」とは、以前報告しましたナブルスのバラータキャンプでこの夏私がお世話になった家族のことです。顔を合わせるたびに「Lovely Noriko!」とキスをしてくれたお母さんの置かれている状況を思うだけで胸がつぶれそうです。

日本では去年の今ごろと同じく、大きなニュースとして扱われることはほとんどありません。

去年はそのままエスカレートを許し、今年4月のジェニンの大量虐殺につなげてしまいました。

でも、この間にもどんどん侵攻しているイスラエル軍の動きに多くの人が注意を払っていくことは、必ず何かしらの抑止になります。

よろしくお願いします。

                         森沢典子

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ビデオジャーナリストの遠藤大輔です。本日2週間の追加取材を
終えて、ナブルスからエルサレムに戻りました。

すでにご存知かとも思いますが、キブツ襲撃の報復として
のトゥルカレム、ナブルス侵攻が昨日から始まりました。
情勢取材が目的ではないので、僕は一足先に「撤退」する
形になりましたが、伝えられる限りのことをご報告したいと
思います。情報の一部は共同通信の島崎さんより、すでに
配信していただきました。

僕が今回ナブルスに入ったのは11月4日(月)です。この10日
間、通学中の児童への威嚇射撃、夜間の銃撃戦などが繰り
返されていましたが、全体としては比較的平穏だったと思い
ます。戦車の数も少なく、カーフュー(外出禁止令)下でも
人々や車の移動が頻繁でした。6日(水)よりラマダーンに
入ったこともあり、カーフューの解除された11日(月)には、
旧市街周辺が買い物客で賑わい、久々にナブルスらしい
光景を目にすることができ、嬉しかったです。日が暮れると
子どもたちが通りに出て、花火でラマダーンを祝うという姿が
見られました。

しかし、12日(火)午後5時ごろから、報復攻撃に備えてほとんど
の商店が店を閉じ、タクシーも休業。特に、バラタ難民キャンプの
メインストリートがひっそりと静まり返っていたのには、大変驚き
ました。ナブルス市街がカーフューでも、バラタの商店はいつも
遅くまで賑わっていたからです。

この日、ナブルス西部のベイトイバから5キロの地点を、多数の
戦車が通過した、との情報を得たのは、午後8時過ぎだったと
思います。ナブルス市街に近い知人宅の窓から西の空を見ると、
二つの照明弾が上がっており、しばらくすると何台かの戦車が
通過していきました。午後10時頃に知人宅を出て、バラタの
宿泊先に戻りましたが、通りにはほとんど人影がなく、すべての
家はシャッターを閉めていました。

イスラエル軍が実際に行動を起こしたのは、13日(水)午前2時半
ごろだと記憶しています。地鳴りのような震動で目が覚めてルーフ
に上がると、南のフワラ方面と、東北のアスカルキャンプの方向に、
何台かの戦車の姿が見えました。

しかし、エンジン音とキャタピラのキリキリという音が混じった、いつも
の戦車の音が聞こえません。ごうごうという唸り声のような音がどんどん
迫ってくるのです。それは戦車の数があまりにも多いため、音が反響
しているのだということに気づき、戦慄を覚えました。よく見ると、戦車が
2台ずつ連なるようにして、あちこちを移動しているのがわかりました。
8月の侵攻時よりもはるかにその数は多く、あらゆる道路を戦車が
通っているように見えました。

午後3時半、バラタの周辺にも3台ほどの戦車が到着しました。ラマダーン
前の朝食時間を知らせる太鼓の音が響くと同時に、パラパラと銃声が
鳴り響き、あちこちで銃撃戦の音が聞こえ始めました。次にバラタの
東側で戦車砲か家屋の爆破のような爆裂音が2回、旧市街方面からも
2回聞こえました。しばらくルーフで撮影をしましたが、すぐにキィンという
実弾の音が迫ってきたので屋内に退避。その直後、一台の戦車が南側
からバラタのメインストリートに進入し、宿泊先の軒下に停車しました。

恐る恐る窓を覗くと眼下に砲身が見え、戦車の排気ガスが部屋の
中にも入ってきました。明かりを消し、同宿のISMメンバーらと相談し、
僕は家族に付き添うことにしました。宿泊先の家族とは7月からの
付き合いです。空からはアパッチヘリの音も聞こえてきました。

午前4時45分、排気ガスの匂いが漂う暗い室内で、家族とともに朝食を
食べました。外からは大きな銃撃音とアザーン(祈り)の声に混じって、
時々ヘブライ語の会話が聞こえます。戦車に乗ったイスラエル兵が
トランシーバーで連絡をとりあっているのです。

自爆攻撃で息子を亡くした宿泊先の母は、「エンドーも私の息子だと
思っている」と言い、「でも、なぜこんなにリラックスできないところに
わざわざ日本から戻ってきたの?」と聞きました。

今日でこの家は最後かもしれない―そういう不安を分かち合って過ごす
夜が何度もありました。そのたびに、通りに面した居間のソファで、僕は
耳をすまして眠りにつくのです。

午前5時半、戦車がメインストリートを走ってゆく音が聞こえ、次に
トラックの音が聞こえてきました。テラスのドアからこっそり覗くと
大型の護送車が見えました。

子どもたちの遊ぶ声で目を覚ますと、メインストリートに戦車の白い轍が
刻まれていました。午前10時過ぎ、周辺の撮影をしようと外に出ると、
小さな路地に人だかりができていました。子どもたちが「フィ・ヤフード」
(イスラエル兵がいる)というので、路地を登って行くと、4階建ての
家に向かって大勢の子どもたちが石を投げていました。しばらくすると
階上から銃撃を受け、子どもたちは蜘蛛を散らすように逃げていきます。

家の壁にはハートマークや花の絵が描かれています。フリースクール
の建物だということでした。どうやら、夜間に兵士が侵入して占拠して
しまったようです。この情報についてはISMのほうからも詳細な報告が
あるのではないかと思います。いずれにせよ、住宅密集地での占拠は、
兵士と住民の距離が近すぎて、緊迫した状況を生むことは必至です。

いったいイスラエル軍はこれから何をしようとしているのでしょうか。
ジェニンのような大惨劇にならないことを祈るばかりです。

遠藤大輔


森沢典子

 
 
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