■レポート、雑感リスト  
住民の戦い
 

 先日あるメールリストを通じて、友人の清末愛砂さんが今いるパレスチナの一都市、ナブルスが、再び激しい侵攻に見舞われているという情報を得ました。


京都にいるKさんによると


「イスラエル軍の議長府からの撤退と入れ替わりのようにナブルス市内でイスラエル軍のひどい侵攻が始まっているようです。

今(9月30日日本時間午後9時前)、ナブルスの旧市街にいる清末愛砂さんと電話で話しました。電話でしゃべっている間にも砲撃の音と銃声(連射中)がかなり近くで聞こえました。

ここ数時間の間にバラタキャンプで一人、ナブルス市内で一人、死亡者が出ているということです。けが人は25人くらい。朝6時から砲撃の音が絶え間なく、戦車がすごい数、市内を走り回っているということでした。

この状態を伝えて欲しいという清末さんからの希望でこれを流しています。先ほど聞いた「ダダダダダッ」という銃声が耳にこびりついて離れません。(清末さん自身が報告のメールを書くのはかなり難しい状態だと思います。また、何か情報があったら、流します)」


・・・というものでした。


ラマラの撤退を発表したということは、またナブルスに侵攻を始めるんじゃないか・・・と不安な気持ちでいましたので、やっぱり・・・と憤りや悲しい気持ちでいっぱいです。

この夏、私もナブルスにはISMとして参加していました。
従姉妹(春日)も一緒でした。


私はこれまで、例えばISMの活動などは、一週間という短い期間だったこともあるし、それ以外は個人で地元の人たちと過ごしていたので「自分が何をしたか」・・・という報告よりも、人々の暮らす様子や聞いた話しの報告を中心にしていました。

時々「戦争を撮りにきました」って言うフォトグラファーの人とかいて「ドンパチ見てえなあ・・」とか、「戦車を何台見た」・・とか「こんなに怖かった」とか、そういうことを誇示されるととても辛い気持ちになりました。

パレスチナ人は毎日、しかも50年以上ずっとその中にいました。

一瞬の冒険や過激なアトラクションででもあるかのように話されるのは、私がパレスチナ人でなくても
とっても悲しかった。

ISMは、最前線で活動するし、もちろん戦車にも遭遇するしドンパチもあります。

だから気をつけて話さないと、自分の体験のそういう部分の過激さを切り取って受け止められることもある。

武勇伝かなんかみたいに。

それで、ちょっと慎重になっていました。

でも清末さんや向こうで出会った仲間たち、その他大勢の外国人が現地でがんばっているのを知るにつけISMなどの活動を通してインターナショナルの人たちがどういう風にパレスチナ人とかかわり、イスラエルの出方を見て、あのおぞましい軍隊と向き合っているか、私が体験したことがたとえそのほんの一部でも、やっぱりそのまま知らせなくっちゃいけない気持ちになってきました。

以下はその報告です。

ナブルスでは、偶然のだったのですが、ビザを取るためにヨルダンヘ行っている清末さんがそれまで泊まっていたバラタ難民キャンプのアブズールファミリーに滞在しました。

(ナブルスは、中心に旧市街、外れにバラタ難民キャンプやアスカ難民キャンプがあります。)

その家の長男がこの春自爆攻撃をして、残された家族の命や、家の破壊の危険があったため、外国人女性の滞在を家族がISMに要請していたからです。

ISMとして、自爆攻撃を支持してはいません。
非暴力の連帯運動ですから。
でも、いかなる理由があろうとも、その家族の命を奪ったり家を壊す権利は、誰にもありません。
ですからそれを止めるために、パレスチナ人の家族と一緒に家に滞在し、外国人がいるということで、手を出しにくい状態を作るのです。

外国人がいるということが抑止になる・・・そのこと事態がはっきりとした差別の存在を浮き彫りにしているので複雑な気持ちになることもあります。

でも何しろイスラエル側の攻撃があまりにも過激で容赦も秩序もないので、とにかくそのことを逆手にとってでもパレスチナ人の命や権利を守る運動をしています。

と言っても、何も持たない丸腰の状態で、知恵と体力、気力だけで多くの特に若い外国人が、長期、または短期でそこに駆けつけ手探りで活動しています。
みんな自分でインターネットで申し込みをしてそこへやって来るのです。
ISM-GIPP(www.palsolidarity.org/index.html)

参加者は誰でも2日間の訓練を受ける義務があり、その後各現場へ向かいます。
この訓練の様子はここでは詳しく述べません。

私はナブルスに滞在する一週間だけ、ISMとして活動に参加したのです。

さて、アブズール家の隣の家はテイテイという家族の家で、やはり自爆攻撃犯を出していました。

今年の5月27日にテルアビブの近郊で起こしたそうです。
そのわずか5日前の22日に、従兄弟のマハムッドが戦車から8発のも砲撃で殺されていました。
その友人も殺されています。

度重なる攻撃に、彼らはKATAKP(ケタエップ)に属し武器の製造などをしていたそうです。

*KATAKPについて、私はよくわからないのですが。

そのことはもちろん秘密で、殺されるまで、家族も知らなかったそうです。
けれどもパレスチナ人側のスパイの報告で、そのことがイスラエル側に洩れてしまったのです。

その家にはジョシュアとドニーという2人のアメリカ人男性が滞在することになりました。
彼らも一緒にISMの訓練を受け共にナブルスに入った仲間です。

比較的穏やかに見えたその頃も、毎夜、特に明け方発砲が絶え間なく聞こえ、それだけでバラタキャンプの誰もが寝不足に陥っていました。

こうすることで自爆犯を出した家族への住民の不満を募らせることも目的の一つでした。

ナブルスの町は相変わらずの外出禁止令の中に置かれていましたが旧市街から戦車が一時撤退したこともあり、町に活気が戻り始めた頃でした。

美しいナブルスの旧市街は、これでもかと破壊され、火を放たれていました。

どんな攻撃理由があるとしても、古い歴史のある町を、しかも昔とほとんど変わらぬ暮らしを続ける人々の文化や生活そのものをこうして破壊する行為は、耐え難い屈辱と喪失感を味わうのに
私にももう十分でした。
長い間人々が使ってきた建物が持つ息吹や霊気のようなものは、破壊によって二度と取り戻すことはできないのです。

古居みずえさんは、「初めて訪れたのがナブルス。美しい街だった。
だから見るのが怖くて、まだ破壊の後は行けないでいるのよ。」・・と言っていました。

ナブルス石鹸の一番大きな工場も破壊されていました。
武器製造の基地であった・・・という理由を町の人に残していったそうですがそこにいる誰もが、伝統的なオリーブ石鹸をそこで作られていたことを知っています。

ベツレヘム近郊のの小さな雑貨屋で「石鹸をください」と尋ねても、差し出されるのはイスラエル産の石鹸ばかりでした。
石鹸工場を破壊して、イスラエル産の石鹸を取り引きさせているのです。
何所へ行ってもヘブライ語のイスラエル産のものばかり。
ミルクも、チョコレートも、洗剤も、石鹸も・・・
それを買うためにお金を払う。
そのお金を使って、イスラエルはパレスチナ人を殺しているのです。
そう考えると何だか腹が立ってしまいました。

「ナブルス石鹸はないの?」と聞くと、「おうおう!」と言って雑貨屋さんのおじさんが店のそこいら中を探してくれて、奥の方から埃をかぶった石鹸を一つ差し出し、「あったよ!あったよ!」と嬉しそうに戻ってきました。
おじさんに「ナブルス石鹸を売らなくっちゃ。」と言うと困った顔で「フュウーチャー!フューチャー!(将来、将来!)」と答えるのです。

事情も苦しさも分かっているから、おじさんを責めちゃいけないし困らせたくなかったのだけれど、何だか悔しくて言ってしまった私の言葉に、「将来ね!」・・・と答えるおじさんを見て言葉に詰まってしまいまし
た。
パレスチナ人がこんな状況の中でも、まだ希望を語ってくれるからかえって胸に迫ってしまったのです。

私はおじさんに申し訳ないことをしたな・・・という気持ちになりました。


さて、ナブルスの旧市街では、ほんの束の間戦車がいないことを見計らって人々はお店を出していました。
それは本当にほっとする光景でした。
壊された家、家族を殺された人、いろんな人のいろんな話しをここでも聞きました。(省略)


毎夜明け方は発砲があり、どこかで死者を出していました。
それでも派手な戦闘はなく、アスカキャンプでもバラタキャンプでも通える子どもだけ集めてサマーキャンプをやっていました。

私もそこに二日間参加して、私の企画で2コマ授業を受け持ちました。
外出禁止令で外で思い切り遊べず、運動不足だったり、欲求不満の子ども達が多いので、相撲大会を開きました。

「『よいしょ!』と力を誇示し、『見張って見張って!』で相手をにらめつけ『八卦よい残った!』で開始。」

「蹴ったりぶったりしないで、押すか倒すやり方だけで勝負します!」英語で説明すると先生が丁寧にアラビア語で説明します。

子ども達(この日は男の子)は、目を輝かせ、あっという間にルールを覚えると次々に「アナ!アナ!(次は僕、僕)」と勝った人との勝負に挑みます。

最後はチャンピオンシップまでやって、大盛況でした。
乗りの良さ、のみこみの速さからも、この人たちの心の豊かさなどが伺え、わたしにとっても楽しい一日になりました。
最後にみんなで座っておはなしの会もしました。
日本の昔話を聞かせてあげたのです。

そんな風にしばらく戦闘はないかと思われた頃のことでした。
ISMとして参加したけれど、このまま何もなく穏やかに過ぎていってくれればいい。
その夜の明け方のことです。8月13日になってました。
いつも通り3時半頃から発砲が始まり目を覚ましました。
でもその日の発砲はいつもよりずっと近くて、兵士達がすぐ側まで来ていることがわかりました。

すぐに着替えて家族たちのところに行きました。
家族も身支度をし、二階の部屋に集まりました。
お母さんの妹に当たる人が「怖い。怖い。」とわたしの袖をつかみました。

でもみんな落ち着いていて、すぐに逃げるしたくを始めました。
こういう事態に備え、避難用のパンなど荷物をすっかり作ってあったのです。

次男と三男は逮捕される可能性が高いので、すぐに近所の親戚の家へ逃げていきました。
アルアクサ洵教団に属していました。

お母さんは床に頭をつけてお祈りを始めました。

私は録音用のレコーダーとビデオをセットして待ちました。

あとでわかったのですがその時には6台のジープ、一台の救急車、40人の兵士が辺りを取り囲んでいたのです。

兵士達は向かいのナビルの家にまずやってきました。
彼はヘブライ語が話せるのです。

そしてテイテイの家族を呼ぶように言いナビルはテイテイの家に入ります。

待ち伏せ攻撃の人質にナビルを使うということと、ナビルを使ってテイテイの家族を呼び出すことで、お互いの不信感を増長させるのがねらいだと思われます。

それから兵士達が中に入りジョシュアとドニーを見てびっくりし外に出るように言います。

家族も表に出て兵士たちと話しをしましたが、結局4人のパレスチナ人とアメリカ人の2人は逮捕され、フワラのベースキャンプ(ナブルスに入る検問所の近く)に連れて行かれました。

アブズール家には今夜は兵士が来ないことを確信し、いそいでテイテイの家に駆けつけると、もうジョシュア達は連れ去られた後でした。

けれども連れ去るときに兵士達は家族にこう言い残していました。
「明日この家を壊しに来る」

キャンプは騒然とし、みんな表に出てきました。

一時間ほどして、連れ去られた6人全員が戻ってきました。
明け方で、空は白み始めていました。
みんなは拍手で迎えました。

プラステイック製の手錠がなかなか取れずに彼らの手に食い込んで赤くなっていました。
私はポケットからナイフを出してそれを切りました。

ジョシュアの話しによると、

連れ去られたうちの一人は心臓病でフラフラしていたので「手当てが必要だ!」と何度も叫んだそうです。

いくつか質問を受けてから突然「帰れ!」と言われました。
強制送還や逮捕者が相次いで出ていたときだったので「何所の家に帰るんだ?」と聞き返すと「ナブルスの家だ!(Nablus USA!)」と言われたそうです。

家を壊しに来ると言う兵士の言葉に備え、その夜から10数人がテイテイの家に住み込みました。
私もそのうちの1人になりました。
従姉妹の春日は、アブズール家に残りました。

テイテイの家の中で、みんなで何度も会議をし、どう兵士に対処しようかが話し合われました。
会議の結果私はジョシュアと共に、ノックしてやってきた兵士を最初に迎え入れ交渉をする係りになりました。

ネタと言うユダヤ人がその日はリーダーでした。

彼女は家の壁に太い鎖を打ち付けて、その鎖を自分の首に巻き、大きな南京錠をつけました。

人間の盾(人質)です。

5人が同じように首に鎖を巻き、イスラエル軍が来るのを待ちました。
それがいい方法か誰にもわかりませんでした。
でも、戦車やブルドーザーや銃に、武器を持たずに立ち向かうには知恵も必要だし、ほかに効果的な方法がある訳でもありませんでした。
私たちも、苦肉の策でしたし、時間は刻一刻と迫っていました。
迷っている暇はありませんでした。

まさかそこをブルドーザーで壊せば、外国人達も死んでしまいます。
兵士がそこから人を動かそうとしても、太い鎖が首を絞め、殺してしまうことになります。

そうすることで、家屋の破壊を防ごうというのです。
もちろん空爆でミサイルを落とされれば、何の効果もないのですが。

その日夜更けになってから、戦車の移動するゴーゴーという音やアパッチの飛ぶ音が激しくなりました。

そのうちに照明弾がピカリといくつも上がり、赤い光線の弾(武器の名前がわからないのですが)やM16による銃撃が激しくなっていきました。
戦争の風景そのものでしたが、攻撃をしているのはイスラエル軍だけでこちらは抗戦をする術も何もありません。
ただの住民ですから。

それは私たちのいる家の窓からよく見える場所でしたが、戦車などは、けして私たちのいるところに姿を現わそうとはしませんでした。
「外国人がいることを知っているから、彼らは来ないわよ。」とネタが言いました。

けれどもそのことでまたその夜も住民達は眠れず、恐怖で震えていました。

武器も持たず、持てず、バラタキャンプの男達が怖れて身を隠すのではなく暗闇の通りの真ん中を連ね「パレスチナに平和を!!自由を!!」と奮い立つような深い声で叫びながら、何度も何度も歩いている姿が今も焼き付いています。

撃たれるとわかっていても、引き下がることは出来ないのです。
その気持ちは、ここに一緒にいて、立派な武器をちらつかせ意味もなく夜中に威嚇してくる理不尽なやり方を一緒に味わえばすぐに理解が出来ます。

恐怖より、怒り、誇り、自尊心・・・そんな思いの方が強くなるのです。

それでも私は今ここにいるけれど、それさえ通りすがりでしかありません。私にはまた戻る場所があるのです。
でもここにいる人々は、これが日常なのです。
それも、直接攻撃をされてない、まだましな「ある日」でしかないのです。

毎夜、人騒がせに、大袈裟に、イスラエル兵たちが騒ぎを起こす。
戦争ではなくて、ただの嫌がらせです。
この繰り返しがもたらす、憤りやフラストレーションは、大変なものだと思います。

自爆をしたときだけニュースになるけれど、パレスチナの人々のこうした日常のやり場のない悔しい思いをどうしてこのまま放っておけるのでしょうか?
今思い出してもいても立ってもいられません。

朝が来ると、何もなかったように静かな町に戻ります。
みんな寝不足顔で、もう外に出ています。

その日私はISMのメンバーと五人で、入植地付近にあるパレスチナ人の家を訪ねました。

その家は、もう一月以上イスラエル軍によって占領されていました。
三階建ての家のそれぞれの階に三つの家族が暮らしていましたが占領されてからは、全ての家族が一階に押し込められ、三階部分を兵士達が使っていました。

(そこでの話しはまた別の機会に報告させていただきます。)

その夜は、やはりテイテイの家に泊まりました。
その日は私が首に鎖を巻いて待つ係りになりました。
肩にずっしりと重い鎖を首に巻き、パスポートとレコーダーだけ持って、私は壁に寄りかかりました。

細かくいろいろな作戦が話し合われました。

その夜も同じような状況でした。


照明弾や、赤いレーザー光線が、自分たちの地域を照らすたびに、一瞬「やられる?」・・・という不安に
襲われます。
攻撃の音に慣れることはありませんでしたが直接攻撃を受けることも、兵士達が家を壊しにやってくることもありませんでした。

ISMも、住民も、長期の忍耐戦を強いられていきます。

「壊しに行く」

そんな言葉を無責任に残していく。
その後の家族の不安は尋常ではありません。
それでも家族は、そこに滞在する私たちに、嫌な顔一つ見せず私たちは本当に楽しく過ごしました。

清末さんは、もう随分長くそこにいます。

彼女は報告できる状態ではないということだったので思い立ってこのメールを書きました。

今旧市街にいるということですが、戦車が集まり侵攻が激しくなると直接の攻撃も受けます。

私のいたときの状況は、まだ比較的穏やかなときで今清末さんが置かれている状況の参考にはならないかもしれません。

でも彼女を応援する気持ちと、少しでも状況が伝わることを願ってこのメールを書きました。

その後京都のKさんを通じて、再び清末さんから、電話での報告がありました。

「朝、バラタ・キャンプで登校する子どもたちを見届ける活動をしていた清末さんら国際連帯運動のメンバーは「今朝は大丈夫なようだ」と思っていた矢先の午前6時40分くらいに、イスラエル軍の戦車がやってきて、兵士たちが銃撃を始めるのに遭遇。それを皮切りに、バラタ・キャンプで、ナブルスの旧市街でイスラエル軍による銃撃が始まり、夜10時ころまで続いたということです。

そのひどさ、無差別さは本当に恐ろしいものだったと清末さんは言っていました。2人が殺され、41人が怪我をしたそうです。

私が昨日、電話をかけたのはちょうど清末さんがナブルス旧市街にいた時間で、M16などでイスラエル兵士たちが連射をしていて、その流れ弾や跳ね返ってきた銃弾も怖かったと話していました。昨日、ナブル
スで殺されたのは少年だったそうです。

清末さんが旧市街からバラタ・キャンプに戻った後、(午後4時過ぎ?)ナブルスのメイン・スクエア近くのビルに戦車が砲撃か何かをして、ビルが燃え上がるということも起こったそうです。中に人がいたこともわかっていたはずだと話していました。中にいた8人(位)は幸い、逃げることができたとのことです。

昨日、清末さんが見た「忘れられないだろう光景」を最後に伝えます。
昼の12時くらいに、なんとか授業を行った学校から子どもたちが下校している途中、その子どもたちの群れにイスラエル軍の戦車が突進していって、子どもを追い回し、空に向かって100発くらいの連射をしたというのです。国際連帯運動のメンバーが戦車の前に立ちはだかり、子どもたちの前に盾になって入って止めさせたそうです。(一時、発砲をやめたがまたしばらくしてから発砲を始めた)

『いやがらせなんてものじゃない。あれはまさにterrorizeだ』
たとえ命令がくだっていても、どうしてあんなことができるのだろう、と清末さんは言っていました。」

森沢典子

 
 
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