■レポート、雑感リスト  
パレスチナ最新情報
 

こんにちは

皆さん、ご無沙汰しています。

BCCに名前をクリックして入れていきながらお一人ずつお顔を思い浮かべていました。

元気でおすごしですか?

私は7月23日に日本を発ち、この夏は二度目のパレスチナ、イスラエルで過ごしました。

8月25日に日本に戻りましたが、言葉をなくしてしまい2日寝込み、その後子ども達と朝から夜まで夏の最後の授業をし、忙しくしていました。
すぐに連絡しなくてごめんなさい。

随分たくさんの方が、心配して連絡をくださいました。
心配をしてくださっていたのに失礼をしました。
でも、お一人お一人の気持ちが本当にうれしくとてもなぐさめられ、だんだん元気が出ました。
ありがとうございます。

どうしてこんなに調子が狂ってしまったのか、自分でも困ってしまいました。

前回は、一つ一つに胸をえぐられるようでした。
でも今回は、自分がとても無感覚になってしまっていました。

美しいナブルスの旧市街が、遺跡のようなあの街が惨めなほど破壊されているのを見ても、前回訪れたジェニンの難民キャンプが破壊し尽くされていて、それを片づけるブルドーザーの作業が上げる砂ぼこりに(埃で空気にカーテンがかかったようでした)
目も開けられず、その中で聞いた不発弾を処理する爆発音にも、現地に着いて間もなくミサイルを落とされたガザの現場に駆けつけても、どれもバーチャルな感じがして、何も言葉が出なかった。

暑さのせいでか、砂ぼこりのせいか、ただ喉が奥まで乾いてしまって、ジリジリ太陽の陽射しが痛かった。

無理矢理写真を撮った。

ジェニン難民キャンプでの出来事は、日本で写真を見ていた時も信じがたくて、行けば何かがわかると思って来てみたけれどわからなくて、ならばここに泊めてもらって、わずかでも一緒に過ごせばわかるかもしれないと思って、それで旅の後半、もう一度戻って泊めてもらいました。

前回お会いした方の家が、4月に行われた破壊と虐殺の間の17日間、家を兵士達に占領され、基地として使われていました。
その間、兵士に見つからないように、地下室に家族で隠れて過ごすしかなく、その時のことを詳しく伺いました。

そして兵士達は、家を出て行く4月19日(金)、使っていた三階部分をすべて破壊していきました。

私が泊めてもらった時には、そのほとんどが修復された後でした。
それでも破壊の後は生々しく、特にその家にいる小さな女の子三人の人形の、片目が引き裂かれていたり、おでこに落書きがされていたり、足で踏みつけられて、顔が汚れひょうたんのように形が歪んでしまっているのを見た時に、けして偶然や間違いで破壊してしまったのではない、一つ一つに込められた「積極的な悪意」を感じ取らずにはいられず、その幼稚さもふくめてぞっとしました。

そしてその壊された人形でさえ、前から気に入っていたからと、子ども達のベッドの枕元に大切そうに並べられているのを見て私は愕然としました。

ここでの詳しい様子などは、またあらためてきちんと報告したいと思っています。

もう一つ真っ先に触れておかなければならないのは、外出禁止例のことでしょう。

特にナブルスでは、私が訪ねた時でもうすでに40日を越えていました。

三月ははチェックポイントによる封鎖により、人々が街の行き来出来ず、その封鎖の影響が深刻になっていました。

けれども4月以降に始まった外出禁止例は、自分の「家」から出られないのです。
街は死にます。

へブロンは、ゴーストタウンと化していました。

ラマラや、ジェニンなど、ウエストバンクのほとんどの自治区で
外出禁止例(カーフュウ)は毎日夕方6時頃から始まり、朝まで続きます。
この時間の設定は、イスラエル側の意向で自由に動かされます。

人々が天気予報を見るように「今日はカーフュウがあるか、ないか?
何時に街は開くか?」とテレビで情報を確認し、日常の挨拶のように伝え合い、カーフュウが始まる直前にチェックポイントが混雑し行列が出来るのを、わたしには普通の感覚で受け入れることなど到底出来ません。

こんなおかしなことが、どうしてまかり通り、どうして何所の誰にも止めることができないのでしょう?

パレスチナの人々は、夏の暑い間、朝早くから仕事を始め、昼は早く切り上げて休み、夜の時間を外出などをして楽しみます。
夜中の12時をまわっても、そとにイスを出しておしゃべりしたり市場も開けています。

だから昼間だけカーフュウを解いても、彼らの生活パターンにはまったく馴染みません。

前回訪れた時、パレスチナの人々があれだけ最新鋭の武器にやられても陥落せずに生き延びてきたのは、彼らのコミュニテイの力によるものだということを、私は訪ねて始めて気がつきました。
それが最後の砦でもあるかのように、瀕死の状態でも、人々はしっかり支えあっていました。

(攻撃というと自爆テロですが、まさかそのお陰で闘えている、生き延びているとは考えられません。)

イスラエル政府は、パレスチナ人がどうやって命や社会を繋いでいるかよくわかっているかのように、そのコミュニテイを根底から破壊し徹底的に彼らを追いやるような政策を続けています。

それが「外出禁止例」です。

空爆などとは違い、この外出禁止例は地道で大きなニュースとしてなかなか外に伝えられません。
けれども、これは確実に、じっくりと、街ごと殺していきます。
人々は不満やストレスで生気を失い、家族を責め、水や食料の不足に飢え、仕事を失った父親は
屈辱に耐えています。

夏休みの子ども達が、外で友達と遊べず,会えず家の小さなベランダや、窓の格子の隙間から
どの家からもどの家からも、空に向かって凧を揚げていました。

自由に大空を飛びたい、けれど飛べない。そんな不自由の象徴のようにも見えました。

「助けて」とメッセージを投げかけているようにも見えました。

もちろん子ども達は、輝かんばかりの笑顔でしたけれども。

その光景が目の後ろに焼き付いたまま、重たい気持ちで日本に戻って、成田空港で夏休みの海外旅行から帰ってきた
ばかりの、日焼けをした人々の楽しそうなお喋りを聞いていても、家に帰ってテレビで芸能人の誰かがどうした・・・というニュースを聞いても、今度はそれをものすごい無感覚、無表情で見ている自分がいました。

彼らを責めるつもりなど、まったくありません。
平和が何よりです。

いつかパレスチナのテレビで流れるニュースが芸能人のことや、夏の旅行の特集で溢れたら
どんなにいいでしょう?

ただ、私は自分が何所に立っているのか、その感覚がつかめなくて、ただ疲れだけが現実的にダーッと沸いて来て、それで泥のように眠ってしまったのです。

いつのまにか長くなってしまいました。

この一月の旅のことは、メール,写真、映像(今回はある方の協力も得て映像も14時間分撮ってあります)を利用して何らかの形で皆さんにご報告したいと思っています。

皆さんからいただいた寄付金も、様々な方にお届けしました。
そうしたことも含めてまとめていきたいと思います。

技術が伴わないので、どなたか力を貸してください。
写真展の開催、報告会、特に映像の編集、資料やインタビューの翻訳など、協力してくださる方を募集します。
一度に大きなニュースに出来なくても、ゆっくりでも伝えていきたいのです。

最後になりましたが、急でもうしわけありません。
本日のことですが、報告会のお知らせです。
パレスチナ子どもキャンペーンでおなじみの大河内さんが企画してくださいました。
キャンペーンとしてではなく、大河内さんが地元で活動していらっしゃるNGOの主催です。

急すぎるのでお知らせするのをやめようかとも思いましたがひょっとしていらっしゃれる方がいるかもしれませんしそれで会場でお会いできたら嬉しいので、お知らせだけします。


森沢典子
 
 
midi@par.odn.co.jp