広河隆一よりご挨拶
私が1967年にはじめてイスラエルに行き、パレスチナ問題に出会ってから2007年でちょうど40年になります。

1967年に、私はキブツ(イスラエル農業共同体)に入って仕事をしていましたがある日、畑のはずれに白い瓦礫を見つけました。 それがかつてのパレスチナ人の村だということを知ったのは、1年後のことです。 村は完全に破壊され、その人々がどこに行ったのか全く分かりませんでした。

パレスチナ難民が発生し、イスラエル国家が誕生した1948年から、再来年で60年になりますが、この年に一体何が起こったのかは、今でも世界ではほとんど何も知られ ていないままです。真実の詳細は未だに歴史の闇に埋もれているのです。それを解き明かすには、当時の記憶がある人々に出来るだけ多く会って、インタビューするほかありません。そしてパレスチナ人だけでなく、ユダヤ人のインタビューも必要になります。

この40年の間に私は何度も現地に足を運び、パレスチナの消えた村々を記録に残す仕事を始めました。約250の村の取材写真は「パレスチナ写真記録2・消えた村と家族」(日本図書センター)にまとめました。

同時に私がこの間に取材した膨大な映像記録を、2002年暮れに立ち上がった 「広河隆一パレスチナ記録フィルム制作『1コマ』サポーター」(略称『1コマ』サポーター)の支援を得て人々の記憶や出来事を作品として記録に残す仕事にとりかかりました。

私はパレスチナ問題の根源に当たる難民発生の問題を知らなければ、パレスチナで現在起こっている出来事を理解することは出来ないという思いをいよいよ強くしました。 特に2006年11月に行った最後の取材では、私が捜し求めていた難民の人々に出会うことができました。 それは私が40年近く前にはじめて見たあの瓦礫の村にかつて住んでいた人々だったのです。

私は今回、白い瓦礫、つまり彼らが追われた村を、その人々が訪ねるところを撮影することができました。インタビューしたパレスチナ人難民も、そしてキブツに住むユダヤ人も1948年まではお互いに交流があり、子どもたちは仲が良かったと言っていました。

虐殺事件のうわさを聞いて恐れた村人たちが離村しようとしたとき、キブツ・ダリアの責任者が村を訪ねて『村に留まるように』と言ったという証言もパレスチナ人の女性から 聞きました。しかしその裏では様々なことが起こっていました。 その実態を求めて始めた取材は40年に及びましたがこれでほぼ終わったと思っています。

あとは記録映画の編集と完成だけです。
『1コマ』サポーターの方々の呼びかけ、支援によって2003年から始まった編集も佳境に入ろうとしています。 膨大な 映像と写真をもとに証言映像記録を制作する試みは、数十時間に達し複数部構成の世界でも類を見ないものとなりつつあります。

1月20日の報告会では、2006年11月の取材報告を中心に、制作中の作品の全貌をお伝えします。

2006年12月 広河隆一



▼広河隆一報告会『2007年・パレスチナ・日本』
▼広河隆一パレスチナ記録映画制作委員会より
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